このホームページをご覧いただいている時点で、皆さんは私のことをある程度ご存知なのでしょうね。それはあなたがクリスチャンだからでしょうか?ライトワーカーだからでしょうか?もちろんこうやって私に興味を持ってお読みいただけるのは嬉しいのですが、私の名前すら知らない多くの方々の目には触れないこと、知っています。それが残念な気持ちです。別に、「こんな人が2000年前にいたのよ!」なんて、アピールするつもりはないのですが、でも、義母でありイシス神殿の先輩でもある、アポロのマリア……今の地球では聖母マリアと呼ばれて崇められている人です……に比べて、どうして私の扱いはこんなにひどいのだろうという思いを、ずっと持ち続けています。
今までも何度か述べてきたように、私は本当に「一番弟子」と「自称」したペテロのことが本当に許せません。私とペテロの確執については、最近ようやく消されていたものを見つけ出してくださった……とはいえほんの一部分なのですが……「マグダラのマリアによる福音書」をお読みいただければ、ただ今キーボードを打たせている彼(私の女神としてのパートナーです)の妄想ではないことは、お分かりいただけると思います。
私はペテロによって迫害を受け続け、彼が守ってくれたおかげで命こそは奪われずに済みましたが、私の伝承、そして何よりもヨシュアが本当に伝えたかった教えは、後の教皇権力と共に全て抹殺されました。
今のキリスト教とヨシュア、あるいは私の教えがいかに違うか。きっと常識では考えられないので驚かれると思います。
もしこれをお読みの方でクリスチャンの方がいらっしゃるなら、聖書に書かれていることについて、真と偽りを見極める目を持ってください。
「マグダラ」というのは、多くの方が議論されているような地名ではありません。
「マグダラ」は、性の巫女を極めた私に与えられた霊的称号です。
私は元々、女神の一柱でした。名前は人間がつけるものですが、ソフィア、と名乗っておきましょう。私の教えを一番忠実に受け継いでいる、グノーシス派と呼ばれるキリスト教の宗派が女神ソフィアを信仰していることが、何よりの証拠です。残念なことに、必然でありますが、ペテロ勢力により異端とされて広まらなかったんですけどね……。
ヨシュア、イエス・キリストの降臨にあたって、誰が人間としてのパートナーになるか?地球に行くか?という話し合いがありました。
私も、正直に言うと、女神として人間として降り立った時の苦難は見通せていて、あまり乗り気ではありませんでした。正直にいうと、女神さんが好きな方は幻滅させてしまいますが、女神にも人間のように感情があります。パートナーとの別離、そして女性性の全否定が待っていると分かるのならば、そんな役目誰も果たしたくありません。
私は、候補になった女神の中でも、心が優しかったのでしょうね……あの頃は。
結局私がイエス・キリストとなる人のパートナーとして1世紀の地球に降り立つことになりました。
最初に言うと、本当に後悔しています。
私は生涯を通じて、そして人間としての生を終え、女神に戻った今もなお、癒しきれない傷を抱えてしまったのですから……。
私は、本のタイトルにあるような「無限の愛」を提供できる存在ではありません。
2000年にもわたって、ペテロを憎み続けているのですから……。
逆に言えば、それだけ、生涯にわたりペテロに嫌がらせを受けた、ということです。
私はエジプトの第二の都市・アレクサンドリアで生まれ育ちました。父はユダヤの地の大領主で、名前をアイクと言います。母は私と同じく、というか代々イシス神殿に仕える性の巫女の家系で、上流階級の娘でした。名前をサンドラと言います。両親も私と同じく、政略結婚でした。でも仲は睦まじかったですよ。
優しさと厳しさを兼ね備えた父と、まさにイシスのような荒っぽさと優しさ、巫女として研ぎ澄まされた真の女性性を兼ね備えた母に育てられたことは、本当に私の誇りです。財産です。
そうですね。今の日本の有名人で例えるならば、父は池上彰さん、母は相川七瀬さんのような人です。
え?なんでそんな具体的に名前を出すのかって?なぜでしょうね。うふふ。
兄弟は私を含めて5人いましたが、そのうち3人、男の子2人、女の子1人は2歳までに亡くなっています。私は3番目の子どもです。一番上の3つ年上のお姉ちゃん、セーニャとは大の仲良しでした。誕生日が私と同じなのです。話が飛びますが、イエスの処刑後、大好きだったお姉ちゃんをペテロに引き裂かれてしまった。事実上お姉ちゃんをペテロに殺されてしまった。だから私は、ペテロを許すことができません。
私は母親の実家であるアレクサンドリアで幼少期を過ごし、10歳を迎える頃に代々の習わしであるイシス神殿に性の巫女として仕えることになりました。
私は西暦4年8月4日に生を受け、還暦を迎える年の西暦64年1月30日、生まれ故郷からは遠く離れたウェールズのセントデイヴィッズ(当時はメネビアと呼ばれていました)で、インフルエンザで亡くなりました。晩年は乳がんに侵されていました。
最初から私がものすごい性の巫女としてのパワーを持っていると認められていたわけではありません。
修業を通じて、私の能力が認められ、他の巫女とは違った特別な訓練も受けるようになりました。
ただ、それを嫉妬した私より年齢が上の巫女とトラブルになったりして、私はヨシュアと結婚する前から、ペテロに迫害を受ける前から、心が休まらない生活を送っていたのも事実です。本当の私は、いつでも怒ってばかりいましたよ。……心の中では。
性の巫女の修業とは、 清らかに言えば、男性のエネルギーと女性のエネルギーを極限まで高めて結合させるテクニック、です。
ただ、座学もしっかりやっていました。実技と時間にして半分半分ですね。
1世紀初頭当時の最先端の科学(そういう言葉は当時はありませんでしたが)、数学、幾何学についてもしっかり学んでいました。
私は10年近くイシス神殿に仕えましたが、前半は技法、座学を習得するための見習い、後半は実際に性の儀式を執り行う巫女として、仕事をしていました。
私が娼婦と呼ばれるようになったのは、性の巫女として不特定多数の男性とセックスしていたのをペテロたちが悪意を持って事実を改ざんしたものです。そういった意味で全く根拠のない話ではないのですが、私がヨシュアの伝道に同行するにあたって、性の巫女として今でいうセックスボランティアの役割も果たしていたのを含めて(後ほど話します)、やっていることは似ているかもしれないけれど、だからこそ「娼婦」と言われるのは、一番我慢がならないことです。
その後私は、もちろん運命として決まっていたわけではありますが、形の上では政略結婚として、有力者の子息同士、後のイエス・キリストとなる男性と結婚することになりました。
私は性の巫女の修業、仕事を一旦終えた西暦23年、当時としては有力者同士のよくある政略結婚として、ヨシュアと結ばれました。昔は初めて会っていきなり結婚式、なんて人もとても多かったですが、私たちは形の上だけとはいえ交際期間もありました。もちろん初めから、お互いがお互いを強く必要とすることは分かっていました。
私は性の巫女として相手の悪いエネルギーのシールドの方法をもちろん学びましたが、相手のエネルギーと一つになる技法を身に付けることは、良くも悪くも相手のエネルギー全てを吸収することです。
そういった意味で、私も10年近く性の巫女の修業、仕事に携わって、セルフケアでは取り切れない負のエネルギーがある程度蓄積して、倦怠体質になっていたのは事実です。
倦怠体質になっていた私は、ヨシュアの癒しのエネルギーを自ら受けてみて私は本当に感動しました。それは、聖書の伝承にある通りです。
ヨシュアが癒しの奇跡を実践するにあたり、私の性的なエネルギーの注入は欠かせないものでした。そういった意味では、私とヨシュア、二人が揃って癒しの力を求める人に与えることができたのです。人間として性の巫女の修業をしていた頃は、ヨシュアと結婚するなんて思いもしませんでしたが、結果として、私の性の巫女の修業は、全てヨシュアの奇跡を達成させるために存在したのです。
もちろん、言葉では説明できませんが、彼とは深く深く愛し合っていました。でも、今は……。
私はヨシュアが伝道するにあたり、困っている人を全て受け入れることを実践していました。それが先日述べたような、セックスボランティアのような立ち回りです。
障害や病気を持って、性欲があっても自分で処理できない人の相手をしていました。
驚きますか?でもそれが、私の性の巫女としての本質です。
もちろん、その相手にも、ただ一時的に満たされるのではなく、長期的な平穏を与えていました。
正直なところ、ヨシュアが生きていた頃から、ペテロやパウロは私との夫婦関係についても快く思っておらず、私が今でいうセックスボランティアの仕事をしていたことについても、なんて穢れた女だと思っていたようなのです。でもそれって、ヨシュアを否定することにもなりませんか?自称一番弟子のペテロさん?
教祖が亡くなった後、誰が後を継ぐのか、教団内部で大揉めになることはよくあることです。
残念なことに、キリスト教も例外ではありませんでした。
でもなぜ私がペテロに勝てなかったかというと、やはりそれは女性だから、だったのでしょうね。
女神として降り立つまではこのような運命、結果になることは分かっていましたが、人間として生きている間は、今キーボードを打たせている彼のように、自らの人生を見通すことはできませんでした。
ペテロの「殉教」(何が殉教ですかって私は言いたいです。それに因縁めいているのが、私がインフルエンザで亡くなった年とペテロが殉教した年は同じ西暦64年です。)以後、教皇権力はまず、私や義母・アポロのマリアの女性性を全否定することに力を注ぎました。性の巫女・アポロのマリアを永遠の処女・聖母マリアに改ざんすることを含めて。ヨシュア本来の教えよりも、女性を下位におくことによって統治機構を確立することが最優先だったのです。
それについては、天界に戻った後の私は文字通りはらわたが煮えくり返る思いで見ていました。
私が娼婦、改悛した女とされていくことを含めて……。
私は結婚した翌年、ヨハネという男の子の赤ちゃんを授かりました。
ただ、最初の男の子どもは有力者の養子に出すという取り決めがあったのです。
なので、ヨハネは確かにヨシュアと私の子どもだけれど、直接育ててはいません。
色々な配慮からヨハネが私とヨシュアの子どもであるということも、ある時期まで伏せられていました。
ヨハネとは私のヨシュア処刑後の受難の後、私の隠棲地・ウェールズで再会を果たします。
ヨハネは25歳になっていました。養父の死に際し、「本当はお前の両親はヨシュアとマグダラのマリアなんだよ。でも、誰にも話してはいけないよ。」と養父から知らされたのです。
ヨハネとの再会は、本当に劇的なものでした。
「大変だったね、母さん……」と一言目に声をかけてくれたことが、私はどんなに嬉しかったことでしょう。
血がつながっているだけで育てなかったとはいえ、実の息子との再会がどんなに嬉しかったことでしょう。
ただでさえ、私は二男・ユダと生き別れになり、二度と再会することが叶わなかったのですから……。
ヨハネは養父の後を継ぎ、ユダヤの地の大領主として君臨していましたが、1年に1回は必ず私に会いに来てくれました。
イスラエルからウェールズ。当時では1ヶ月もかかる長旅ですよ?
それでも逢いに来てくれること自体が本当に嬉しかった。
そして、ヨハネは誰にも自分の両親のことを言うことなく、私の後を追うようにこの世を去りました。
イスラエル近辺にはヨハネの血を引く子孫の方がたくさんいらっしゃるのですが、探す必要はないことです。自分がイエスとマグダラのマリアのの子孫であると知ってしまったら、その人は自分の人生を生きづらくなってしまうと思います。
彼が物理的な傷を癒す。私が精神的な傷を癒す。そういった形でヨシュアの伝道活動は大きくなっていきました。
彼との結婚期間は10年足らずでしたが、28年に次男ユダ、32年に長女サラをもうけています。
ユダは、私たちマリア勢力(こんな言い方をするのも情けないのですが)によってヨシュアの後継者にされることを嫌ったペテロ勢力によって、イエスの処刑後、どさくさにまぎれて拉致監禁されてしまいました。
本人は父の処刑時4歳でした。薄々自分に起こっていることも分かっていたのではないでしょうか。
私はこの世から去る時に初めて聞かされて本当に落胆したのですが、ユダは私が亡くなる遥か前に、19歳で病没しています。病没だと思いたいです。真実に目を向けたくない。もしかすると、いや、もしかするとではなく、真実を知った末に絶望して半ば自殺のような形で亡くなったのかもしれない……。うう……。
(エマニュエル注:ユダの死因は自殺です。自らの生い立ち、置かれている立場を知り、絶望して海に身投げしました。)
私が生きているうちは、必ずユダに再会できると信じていました。
それなのに、それなのに。
長女サラは、ヨシュアの十字架刑というタイミングで私がみごもっていた子どもです。もちろん、そのタイミングに大きな意味があったのです。
私は身重の身で、ペテロの迫害から逃れてイタリア、フランスへと渡らなければなりませんでした。
私の命だけではなく、娘の命もかかった、文字通りの命がけの亡命でした。
私がたどった亡命ルートは、今のシリア難民がたどるルートそのものです。
シリア難民の方々を見て、私が考えさせられるというよりは、テレビで見たりすると未だに癒えない私の傷がフラッシュバックして、とても辛い気持ちになります。
心に、人には言えない古い傷を抱えている方、たくさんいると思います。
でも逆に、私も2000年かけてもまだ癒えていないから。
その傷を数年で癒そうとしないで。一生かかってもいいの。
だから、絶望しないでね。
私も夢幻の愛を送って、あなたをサポートします。
話が前後しますが、イエスの十字架刑については、あまり思い出したくありません。
クリスチャンの方が涙を流して観る、イエスの十字架刑を描く「パッション」という映画があります。
私は映画として再現されることに嫌悪感を抱きます。
たぶん来ないでしょうが、もしイエスの十字架刑について語れる日が来たら、その時は語らせてもらいますね。
10年足らずの結婚生活はとても幸せなものでした。
……と言いたいところですが、弟子と自称するくせに、私に対して妬みの気持ちを持つ方が多くて、心が休まらなかったんですけどね。
結局、私は晩年エマニュエルの勧めでウェールズに隠棲するまで、ずっと心休まらない人生を送っていたのです。
性の巫女の時にしても、ヨシュアの伝道に妻として付き添っていた時にしても、妬まれるということは、私も誰かを妬んでいたのかな?と今になって反省します。
そうですね。私は私で迫害を受けたからペテロパウロが嫌いなのではなく、「弟子のくせにこいつら何も分かっていない」という上から目線の意識があったのでしょうね。
女神としては完成されていても、人間としてはとても未熟でした。
いや、そもそも女神として完成されていないからこそ、ヨシュアの妻、性の巫女のトップとして地球に降り立ったのでしょうね。
イエスの処刑後、誰がその遺志を受け継ぐか、誰がリーダーになるのかで、「十二使徒」と私、義母アポロのマリア(聖母マリア)は激しく対立しました。
先日も述べた、歴史に消されてしまった「マグダラのマリアによる福音書」の断片が見つかりましたが(見つけていただきましたが?)、それに書いてある通りです。
私が泣いたと書かれていますが、女々しい涙というよりは、悔し涙です。
私がリーダーになるのか、ペテロがリーダーになるのか。
私を支持してくれたのは、義母アポロのマリア(聖母マリア)と、後に結婚することになる使徒ヨハネの2人だけでした。
残りの十二使徒のうちヨハネを除く11人は全てペテロの側に回りました。
こうなるであろうことは分かっていました。
当時は、今以上に女性性が抑圧されていた時代です。ヨシュアはその解放を目的にしていても、彼の性格上使徒に直接語り掛けることはありませんでした。セックスボランティアとして私がヨシュアとセットで人々を性的に癒すことについて、ヨハネを除く使徒の方々には何の理解も得られていなかったようです。
ペテロの優勢が決まったとたん、私はすぐに命の危険を感じました。
前回話したように、私は三番目の子どもとなる長女サラを身ごもっていました。
しかし私の行動は一歩遅かったのです……二男ユダを人質として奪われてしまったのです。
私もサラも死ぬ覚悟でユダを連れ戻すか、私とサラだけ……当時は女の子が生まれるとは思っていませんでした……生き延びるか。迷っている暇もありませんでした。
私は両親と姉に別れを告げると……それが家族との最期の別れになってしまいました……ユダヤの地から急いで脱出し、まずは生まれ故郷であるアレクサンドリアに身を寄せました。
ここまでは私に味方をしてくれていた義母マリアと使徒ヨハネと一緒に行動していました。
しかし、ペテロ勢力の私の命を狙う執念は信じられないものでした。
一緒にヨシュアの教えを広める仲間だったじゃない?たとえ分かり合えていなかったとしても……。
どうして、どうして……。
最初は今のようにここまでペテロのことを憎んではいませんでした。
ある時までは、分かり合いたいと思っていた。
でもそれは、かないませんでした。
ペテロが私の両親と姉の一家を追いはぎした。私の大好きだったお姉ちゃん、セーニャが赤ちゃんを連れて流浪の末寒い冬に餓死した……。
形が間接的であれ、私にとってそれは、ペテロによって事実上家族を皆殺しにされたのと同然でした。
今までの私のメッセージをご覧になって、どうしてそこまでペテロを憎んでいるの?本当にあなたはマグダラのマリアなの?と思った方もいたと思います。
私は、家族をペテロに皆殺しにされました。
だから、彼のことが許せません。
ヨシュアの教えを捻じ曲げたこと、彼が礎を作ったキリスト教文化が十字軍、魔女狩りなど、多くの殺戮を生んだことを含めて、膨大な負のカルマを背負ったペテロを冷笑する私が、本当の私なのです。
「私は全てを受け入れ許してきました。」
別のチャネラーさんによって、そう言う私もいるでしょう。それも間違いではなく、私が言っています。
できないからこそ、言ってみたいのです。
あるいは、聖母とされてしまった義母マリアと同様、イメージを壊さないようにする配慮もあります。
全てを受け入れるのがマグダラのマリアであると思っている方に、本当の私の感情を押しつけたりはしません。
不本意ではありますが……こんな言葉を使うのも申し訳ないのですが……全てを受け入れる私が好きで、私が心の支えになっているのならば、そういう私でいます。世界中に、たくさんいますからね。
全てを受け入れる私として、偽りの姿であっても、私を慕ってくれる方々を私は保護します。
義母マリアとヨハネと3人でアレクサンドリアを拠点とし、ペテロたちと対立するのではなく、独自に私たちが伝えたいヨシュアの教えを継承して広めていこうとする試みもしました。
しかし、完全についえたわけではなく、エジプトでコプト教として、ひそかにその血脈を受け継いでいます。
コプト教と東方正教会、特にその中のグノーシス派は、はっきり言えばペテロではなく私、マグダラのマリア系のキリスト教派です。
自分で語っていて、よく見れば私の教えも結構な割合で残っている、引き継いでくださっている方がいると再認識させられました。
案外、自分の周りってよく見えないものですよね。私のような存在であってもですよ?
それに気がついたら、何だか今、私は少し心が楽になりました。
今まで、私が引き継ぎたかったヨシュアの教えは完全についえたと思い込んでいたから、すごく怒っていたんだわ。
私についた人、ペテロについた人、コプト教祖マルコのように両者を揺れ動いた人、そもそもこんなのイエスが言いたかったことじゃないと困惑した大勢の人。
それが、イエスの十字架刑後の1世紀のヨーロッパ、ユダヤ、北アフリカの状況でした。
私たちはペテロはペテロで、別にやっていいという考えだった。
でもペテロたちは、それを認めなかった。
迫害の手はすぐにアレクサンドリアにも及んできました。
ここには私のイシス神殿時代の性の巫女のOG,先輩、同期、後輩がいたので、組織的な支援もあったのですが、それも及ばないほどでした。
ペテロは、私の思い込みではなく、私個人が嫌だったようです。
私個人を……表向きは事故のように見せかけて……殺害し、ヨシュアの教えから女性性原理を抹殺して、自分たち、男性の都合のいい宗教にするのが目的だったようです。
さすがにペテロも義母マリアにまでその手を向けることはためらわれたのでしょう。
「私たちが守るから」と慰留する義母マリアとヨハネを振り切り、私は迫害の手が迫るアレクサンドリアから離れ、身重の身のままギリシャ、さらにはイタリアへと渡ります。
三番目の子どもとなるサラはこの時に産みました。
しかし私は、子どもが女の子であったことに絶望しました。
絶対に男の子が生まれて、ヨシュアの教えを受け継いでくれると思ったのです。
そのあたり、私も女性でありながら、男尊女卑の考え方が身についてしまっていたのですね。
当時の常識からすると仕方がないというのは、ただの言い訳です。
私は育児放棄をしようと本気で思いました。
それを周囲に説得されて、やっぱり自分の手でこの娘を育てようという気になったのです。
私は母親失格です。
子どもが1歳になる頃、私は南仏プロヴァンスのサントボームの洞窟で伝道活動を始めます。
当時はこの地にまではペテロの手は及んでおらず、ヨシュアの本当の教えを伝えるのには最適な場所でした。
しかし……。
残念なことに、私の周囲に集まってきた弟子は、いい人たちではありませんでした。
表向きは私の弟子になって教えを実践するように見えますが、私個人に心酔して全く教えそのものを見ようとしない人や、もっとひどいのは、あの弟子が気に食わないと内輪もめをする人がたくさんいたことです。
私も西暦33年から43年まで、それでも10年間頑張りました。
私が、弟子たちがひどいというのもマリアらしくないのかもしれません。
それこそ、世間にイメージされているマグダラのマリアなら、そんなことは言わないのかもしれません。
しかし私は、自分が思うような伝道活動ができないことに、疲れ果ててしまいました。
私は元々天使と交信する力がありました。それが天界での私のパートナーである、エマニュエルでした。
私の命の危険が迫るといつも教えてくれて助けてくれたのも彼でした。
エマニュエルからは、「もう、マリア一人が頑張らなくていいんじゃない?」とたびたび言われていました。
しかし私はエマニュエルのアドバイスを無視して、意地になっていました。
それは、私がペテロに対して怒り狂っていたから。
ヨシュアの教えをどうしても伝えたかったからではないのです。
ただ、一人の人間として、意地を張っていたのです。
そんな姿勢だから、私の元に集まってくる弟子たちがいい人ではないのも、当然だったのかもしれません。
布教して10年。西暦43年、私は、アレクサンドリアで活動を続けていた義母マリア(聖母マリア)が病死したことを知らされます。59歳でした。
それをきっかけに、ああ、私ももう役目は終えたのかなって、なんかふとそう思ったんです。
私は全ての伝道活動から離れ、隠棲することに決めました。
後継者には、11歳になっていた娘のサラを指名しました。
当時の11歳の女の子というと、もう大人でしたからね。
(ちなみに、娘サラもその後、南仏までペテロの勢力が及び、イギリス北部のマンチェスターに布教の場を移しました。現在の公の歴史ではイギリスにキリスト教が入ったのは私たちの後の時代とされていますが、私の言うことを信じてくれますか?)
そこでエマニュエルが隠棲先に勧めてくれたのが、今のイギリスのウェールズ地方、現在のセントデイヴィッズ、当時はメネビアと呼ばれるところでした。
セントデイヴィッズは私の400年後、聖デイヴィッドがウェールズ中から巡礼者を集め大聖堂が立てられますが、それは彼が私が晩年をこの地で過ごしていたことを知っていたからに他なりません。
私はメネビアと小さな港町・ソルヴァの中間あたりにひっそりと居を構えて生活していました。
それはそれは、美しい所でした。
草原と海岸、海が同居する、それだけで私を慰めてくれる場所でした。
本当に美しいところでした。現に今、ペンブロークシャー海岸国立公園として、観光地になっているんですよ
観光地といっても、いわゆる穴場で、私にとっては嬉しいことに、2000年経った今でもとても静かなところです。
私はウェールズに退去してから亡くなるまでの20年間、ただ日がな一日草原にたたずみ、海を眺めながら生活していました。
もし日本の、世界のクリスチャンの方で、イギリス南西部の海、あるいは対岸のフランス北部の海を見て私への感情が湧き上がる方がいたとしたら、それは私とご縁がある証拠です。私と同じイシス神殿の性の巫女や、あるいは、変な弟子ばかりと言ってしまいましたが、私の弟子だった方なのでしょう。
本当に静かで美しい場所でした。
ただ海を見ているだけで癒されました。
しかし矛盾するようですが、私が地球にマグダラのマリアとして降り立った時に受けたこの傷は、亡くなるその日まで癒されることはありませんでした。
一方で、私は新しいパートナーと新しい生活を始めてもいました。
かつてペテロ派とマリア派に分裂した時に、唯一私の味方をしてくれた、使徒ヨハネです。
ヨシュアと結婚していたこともあり、あるいはヨハネがヨシュアを尊敬していたこともあり、はっきりと再婚、という形は取りませんでしたが、事実婚であり、彼との間に四番目の子どもとなる二女イヴァンナ(ヨハネの女性名、ヨハネ2世という意味です)をもうけました。西暦45年、私が41歳の時の子どもです。長男のヨハネから、21歳も離れています。私は性の巫女でしたから、エネルギーを駆使して40歳を過ぎても子どもをもうけることはたやすいことでした。
サントボームにいる間も性の巫女としての役割は果たしていました。男性だけでなく、女性も性的に癒すこともやっていたんですよ。世間でいうレズビアンということになってしまいますが、驚きますか?でも、イシス神殿でも、仲良しの女の子同士性的なエネルギーを交換する練習として、性的な交わりを持つことは普通だったんですよ。
同性愛が異常とされたのは、他ならぬペテロによってです。ヨシュアは神父は結婚してはいけない。同性愛がいけないなんて一言も言っていません。一言も言っていません。これは本当に強調したいことです。同性が好きなのに、「キリスト教」の教義によってそれを阻まれて苦しんでいる人たちが、世界に大勢いる。本当に私や、きっとヨシュアのとっても、心苦しいことです。私たちはLGBTの方の味方です。もちろん彼らも、そこから色々なことを学ぼうとして、性的マイノリティの立場を選んでいるのですが、それでもキリスト教が阻む壁というのは、私たちにとって本当に心苦しいことです。
だいじょうぶ。私自身が女性とたくさん性的な関係を持っていましたよ。
ただ、ウェールズに隠棲して、私は性の巫女としての役割も終えました。
ただ、きっと時間の流れに任せても癒えないと分かっている深い深い心の傷を、海を見つめることで癒そうとしていました。
晩年の20年、朝から夕方まで、ずーっと海、セント・ブライデス湾を見つめていたんですよ。
そうして癒されなければ生きていられないくらい、私はこの半生で本当に大きな傷を負ったのです。
最後の数年は乳がんを患っていました。末期で苦しんで死ぬことがないようにとの守護天使エマニュエルのはからいで、流行性のインフルエンザで、還暦を迎える年の西暦64年1月30日、私はマグダラのマリアとして降り立った、人間としての生を59歳でウェールズの地で終えました。
還暦という概念は当時のヨーロッパにはありませんでしたが、私には密接に関連していたのでしょうね。
私は、それ以上長生きしても仕方がなかったですけどね。きっと私が人間として降り立つ前に自ら設定した寿命だったのです。
今はグーグルストリートビューという素晴らしいテクノロジーがあり、現地に赴かなくても景色を眺められるのですね。
2000年前と殆ど変わらないペンブロークシャー海岸の景色を見ていると、今でも涙が出てきます。
なんて美しいんだろう。癒されなかったとしても、私を癒してくれた海に、言葉にならない気持ちが溢れてきます。
晩年はいいこともありました。
二男ユダを除く家族が全員集合できたのです。
生まれた時に養子に出していた長男ヨハネがユダヤの地からはるばる私の元に駆けつけてくれた時は、人生で一番嬉しい瞬間でした。
前にも書きましたが、
ヨハネ「母さん……大変だったね……」
マリア「ヨハネ……大きくなったね……」
イヴァンナ(後述するマリアの二女)「このお兄さんだあれ?」
マリア「あなたのお兄ちゃんよ。」
使徒ヨハネ「お世話になっております。」
夫と三人の子どもが揃ったひとときは、かけがえのないものでした。
だからなおさら、二度と会えなかった二男ユダに対する悲しみも大きかったのですが……。
私は昇天するにあたり、ユダが生きているなら守護霊になりたいとエマニュエルに言いました。
しかし、エマニュエルは、言いづらそうに「20歳を迎える前に彼は亡くなっているんだ」と言いました。
私は本当に落胆しました。
マグダラのマリアから、女神ソフィアとして戻った後も、現在進行形で怒りの解放、癒しのプロセスをパートナーであるエマニュエルとともに続けています。
よく、自己啓発やスピリチュアルの世界では「怒りを手放しましょう」って言いますね。
でもそれって、どうかと思うんです。
全く怒っていない人なんて古今東西存在しましたか?
それこそヨシュアくらいなのではないですか?
いや、ヨシュアも怒っていたのかもしれない。
私は、自己弁護のようにもなってしまいますが、怒りを抱えて共存して生きることが大切だと感じます。
怒りを抱えながら生活していていいんです。
ただ、その中でも、私がウェールズの海を眺めていたように、家族との団らんのひとときがあったように、嬉しいこと、癒されることがあればいいと思うんです。
ただ、私は女神として、マグダラのマリアとして降り立ったことは本当に間違いだったと後悔しています。
私が好きな方にはこんなことを言ってごめんなさい。でも、それが本音です。
こんなに傷を負うことになるとは思わなかった。
だから私は、二度と人間として降り立つことはしていません。今までも、これからも。
私の遺骨は、政治的に利用されたくないとの思いから、私が眺めていたウェールズの海に家族に散骨してもらいました。私の遺骸を所有すると主張する方を否定するつもりはありませんが、それが事実です。
長い文章を最後まで読んでくれてありがとう。
性の巫女 マリア / 女神ソフィア
*チャネリング記事「本人が語るマグダラのマリアの生涯」より、抜粋しています。全文をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。